こんにちは!
私はらんさあです。(笑)
一言で私を紹介すると、競技生活15年中3分の1は怪我に侵食されてた女です。
ブログ名はマイバンスブログです!
込めた思いは「自分の道を前進、進展、改善、進歩してほしい」(マイ=my バンス=advance)で、私はそのお手伝いをしたいと思っています。自分のために自分でバランスをとってほしいもかけています。
痛みを抱えていた期間が長かった私が今苦しんでいるあなたを救いたい!と思っています。
私のこと
先に謝っておきます!具体的な名前や学校名は公開しません!ご了承ください!
基本情報
出身地:埼玉県
生まれも育ちも埼玉!埼玉県は何もないダサいたまで有名ですが、東京に近くていいスーパーもたくさんあって住みやすいところですよ!私は好きですよ!
家族:独身 三人姉妹の真ん中
性格:頑固、集団苦手、思ったことははっきり言ってしまう、マイナス思考、完璧主義、負けず嫌い、独り言多め、
MBTI:建築家INTJ、提唱者INFJ
今の私に至るまで
幼稚園
マラソン大会で優勝して嬉しかった。給食まずかったな。
小学校
すぐに友達はできた。持久走大会で6年間優勝できた。男子とタイムを競っていてちゃんと勝てた。
シャトルランではその男子に一回負けてほんとに悔しかった。けど、言い訳があって女子と男子は別で男子が後だったからラスト一回は滑り込んでてそれは無効だろと今でも根に持っている。
一年生から水泳を四人の幼馴染と始めた。バタフライ以外はすいすいとこなし、三年生には選手コースに上がって競技として水泳をやっていた。気づいたら幼馴染はすぐにやめてしまったが私は中学一年生まで続けた。週6日2時間みっちり練習していた。ジュニアオリンピックにでれた。
それなりに速くなったが、4年生の時にミニバスケットボールに助っ人で誘われ、入団した。
ミニバスケットはセンスがみじんもなく、ボールが怖くて来ないでくれと思っていたくらい。でも続けたのは、チームとして市の駅伝で活躍して楽しかったからだ。
4年生なのに一人6年生チームに抜擢され、周りの目が怖かったけれど、一位で襷をわたし、優勝できたらみんなにすごいとか、またお願いと言われたし、ヒーローになった気がした。一年に二回の走る目的のためにミニバスを続けた。
それなのに、私の性格を買われてキャプテンになった。一番下手だったのに。
中学校
強引に陸上部に勧誘され、入部。力の入った先生で練習から私生活まで厳しかった。
食事管理、練習日誌、目標管理、礼儀、体重管理を教わり、ここで陸上生活の基盤が作られた。
順調に伸びて、2,3年生で県大会にて1500メートル3番に入賞し、関東大会に出場。全国大会にも出場。
県駅伝は3年連続出走
チームでは毎年5番以内、関東駅伝に出場
関東駅伝
3年連続出場、出走
1年の時にシンスプリントになって3ヶ月くらい痛かったが、先生に紹介してもらった接骨院に通いながら乗り切った。そのほかは大きなけがはなかった。
もう陸上はやめようと思っていたのに、嫌いだった短距離の先生に「逃げるんだ」と言われたのがきっかけで続けることに決めた。母親は県外に行くことに反対だったが、父親は応援してやりたいほうを選べと言ってくれた。
高校
中学の先生の勧めで県外の高校に行くことにした。
ホームシックはなかったが、生活、練習が厳しすぎて毎日辞めたくて家に帰りたかった。
高校生活は1冊の本が書けるくらいいろんなエピソードがある。今では完全アウトなことも普通にあった。いつか書くかも。
先生がすごく厳しすぎてまったく自由のない生活だった。
一番は体重管理。165くらいで43キロくらい。これをキープ。
1年で3000のベストは9’29 5000は16’09 駅伝では関東、全国高校駅伝にも出場。
2年で5000のベストは15’42 関東大会で6位入賞し、インターハイに出場。
駅伝では、関東で区間賞。全国高校駅伝で区間4位で6位入賞。
3年の春から痛みが出始め、我慢してやっていたが、結果は関東大会どまり。痛みは長引き、だましだまし走っていたら、秋の記録会の5000で15’51。痛みが悪化したが、国体選手に選ばれ、我慢して出場。結果は8位入賞。しかし、パンパンに足が腫れてまともに歩くことができなくなった。
整形外科に行き、結果は後脛骨筋腱の腱鞘炎,足関節炎、舟状骨の疲労骨折の可能性といわれた。
1か月後、再受診。我慢してやってもひどくはならないといわれ、覚悟を決める。
毎日、怒られるし、痛くて泣きながら走った。皮膚がちぎれて骨が破裂するんじゃないかと思った。
ギリギリまでやってみたけど、結局足がもたず、駅伝には出れなかった。
この怪我については書き残したいことがたくさんありすぎるから、別のページに書きます!
1か月休めばよくなると言われていたから、すぐに病院に行かなかった。
年末には寮を出て家に帰った。お菓子とかパン、ジュースなど毎日おなかに入れまくった。
太りやすい体質ではなかったけどまったく運動せず食べ続けていたからすぐに6キロくらいは増えた。2月になっても痛みがなくならなかったけど、もう少しで治ると言い聞かせ、病院に行かなかった。
父に病院に行けと強く言われていやいや行った。
結果はレントゲンに映る骨折線があった。
そこから大学でお世話になる方々に相談し、別の病院を受診。
結果は初めて見る事例だから専門家に見てもらったほうがいいと、また別の病院を受診。
結果は舟状骨複雑骨折。骨折が4か所で、骨が削れていて、骨壊死もあり、ボルトを入れることも(手術が)できないから、もう走れないかもしれないと言われた。
大学
足を痛めていたけど勧誘に来てくれた監督の大学に進学。
理由は見学に行ったときに、練習中なのにみんな笑顔で走ることを楽しんでいると感じて、高校で走ることが嫌いになっていたからもう一度走ることを楽しいと思いたい!と思ったから。
チームと親に支えられて半年間の松葉杖生活を経て、病院の先生も驚きの驚異の回復により1年の12月より走り出すことができた。
2年の7月大腿骨骨膜炎。まだジョグしかしていなかったのに。
まだジョグしかしてないのに監督が11月にある駅伝を走らせると言ってきた。
9月に初めてペース走をした。楽しかったのを今でも覚えている。
痛みはあったけどローカルな駅伝のアンカーを走れた。結果、逆転優勝した。
1月左足甲疲労骨折。
3年6月大腿骨疲労骨折。
8月ころから少しづつみんなと練習ができるようになる。
10月の記録会で初のトラックレース3000にでてそれを見て監督が駅伝メンバーに選んでくれた。
全日本大学女子駅伝でアンカーを走り、準優勝。
これが人生の中で一番楽しく、印象に残っているレース。
富士山女子駅伝、出走
3月右大腿骨疲労骨折。
4年4月記録会で5000を走る。走った後、前腿を痛める。
6月個人選手権に出る。
走った後、舟状骨の痛みが悪化し、疲労骨折。
夏合宿で量は減らしてみんなと練習できた。
9月初期の左大腿骨疲労骨折だったから2週間休み練習再開。
11月ひどくなって左大腿骨疲労骨折。
どうにか合わせて、富士山女子駅伝6区走った。
実業団
1年目
5月右脛骨疲労骨折。トレーナーに報告したら初めて見たと言われたから、セカンドオピニオンに。
でも、これまた見たことないと医者に言われた怪我。
2年目
大きな怪我はなかったのに、2ヵ月に一回くらいの頻度で痛みが出て休んでいた。
そのために練習を積み上げられなかった。
1月大腿骨疲労骨折
3年目
4月軽い肉離れ
3月左大腿骨頭疲労骨折
4年目
5月から前腿に痛み。力が入らず、長引く。臀部の痛みに変わる
9月から走れるようになる
12月末膝の痛みがで始める
5年目
病院で診断を受けたが膝に大きな問題はない。しかし痛みがなくならない。
走っては痛みが出るの繰り返し。
監督のすすめで別の病院に。
膝の上にガングリオン。3回ほど注射を打つ。8月から走り始める。
6年目
6月大腿骨疲労骨折
7月末から臀部とハムの付け根の痛みでまともな練習ができなくなる
11月引退を決める
実業団に入ってからは痛みがない状態で走れた日はほぼない。何かしら痛みがあって不安があった。みんなよりも質も量も落としているのに痛みが出る。ポイント練習をすると次の日は走れないことがざらだった。休みながら何とか繋いで走ってきた。
好きなこと
食べること
私の行動の軸はこれです。スポーツをしていると食欲が強いのはみなさんもですよね?
どこに行くのも、走るのも、仕事を頑張るのも、目的はおいしいものを食べることです。頭の中は食べたいものであふれています。詳しく語りたい!!
アートを楽しむ
最近はまり、気になるイベントや美術館に行きます。誰もが見て上手な作品、鮮明に描かれた作品より、何を書いているかさっぱりわからない作品や何重にも重なったインクで描かれた作品、輪郭のない作品が好きです。説明があっているかもわからない芸術初心者です。
街を歩く 散歩する
歩くのが好きで(おいしもののためなら)休日は目的地の手前で降りて歩いて向かいます。その時に街によって雰囲気が違ったり、家を見て、お金持ちそうとか、人口密度高そうとか、治安や車、家の外観から中を想像したりするのが好きです。
ここまで読んでくれてありがとう
ここまで読んでくれた人はいない気がする…
だからほんとにありがとうございます。
今悩んでるスポーツ選手を救いたい。
好きなスポーツを長く続けてほしい。
そのためには健康的で丈夫な身体が必要不可欠。
絶対力になります。ぜひ読んでみてください。